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コラム

「京アニ」の等身大の風景に「悼み」そして「愛」
市民権を得た心のメディアが作るケアの世界

「息遣い」を実感

 山科川の表情は穏やかだった。対岸の人ともおしゃべりできぞうな距離感に水面に緑が混ざり合う。私が渡る小さな橋の目の前には京阪電鉄の鉄道橋がかかり、上流に目を移せばJR奈良線の鉄橋が見える。川の両脇には家の屋根とベランダ、遠くに見える山の緑は穏やかな傾斜だ。この柔らかな優しい風景の中に今年7月に放火事件があった京都アニメーションの社屋がある。

京阪電鉄の六地蔵駅前の新しい住宅街の一角にあるその放火された建物は、近くの木幡駅周辺にある京アニの関連施設と同じ山吹色が印象的だが、火災後には黒いすすが壁面を覆い、痛々しい傷を泣き叫ぶ生き物のようにも見えてしまう。

その日は残暑厳しい晴天で、真っ青な空の下で輪郭のはっきりとしたその生き物を前に、幾人かが佇み、ある人はハンカチで顔を覆いながら嗚咽し、ある男性は茫然とした様子で空を見つめている。そこでは無言であることが仕来りのように、静かにそれぞれのやり方で悲劇と向き合っていた。事件によって生じた心の「痛み」を、現場に来て犠牲者を「悼む」ことで、その痛みを和らげているのかもしれない。

アニメに音痴で詳しくない私でも、この現場に立ったことで感じた等身大の街並みと、ここから生み出されたコンテンツが持つ「癒し」の凄さを魅せられてしまう。新しい家と古い家、新しいアパートと古いアパートが混在し、子供が駆け抜け、お年寄りが手押し車でゆったりと山科川に続く遊歩道に向かう。

それは京アニ作品「日常」で描かれた列車の窓の外の風景。京アニはこの場所で、現代の人の「息遣い」を描いた。アニメでイメージされがちな幻想でもなく、空想でもなく、人の心に現実を宿す希望を描写したのだ。その結果、希望の原点にある人間ドラマに魅せられたファンは心に「愛」を宿したのだと、実感した。

連絡が途絶えて

 7月の事、私の就労移行支援事業所を卒業したアニメ好きの男性の連絡が突然、途絶えた。ラインで日常的にやりとりをし、就労移行支援サービスの期限である2年を超えたために私が個人的に就職活動を支援している男性である。遠くに住む家族とは連絡を取り合い、最悪の事態になっていないことを確認しつつ、2か月経過して再度「すみません。携帯電話が壊れて、ラインも全部やり直したので」と釈明したが、それは取り繕いの言い訳で、事実は「京アニ事件」のショックで落ち込みが激しく、立ち直れず家から出られず、外との接触が出来なかったという。

アニメが三食よりも好きな彼に私はアニメに関する就労に結び付けたいと考え、動いていた。確実にゴールが見えかけていた矢先の事件だったから、ショックも大きい。この彼が「もう大丈夫です」と振り切って生きて行こうという姿勢に接した時、そして京アニ事件を振り返り、「メディア行動」を概観してみると、理不尽な事件への憤りを超えたアニメが作り上げた「愛」のような空間が支配しているのに気づかされる。加害者がいる事件ではあるが、加害者への憤りを超えて、悼むことで事件を浄化しようとしているように見える。

「ケア」及び「メディア」を研究対象としている私にとって、この現象はアニメというソフトコンテンツが確立した「ケア」の世界の姿と理解している。私もあらためて犠牲者を悼むとともに、そのコンテンツ制作の担い手=ケアの作り手であった方々に感謝したい思いがあふれ出てきた。

 ネット上では、京アニ作品が「東京物語」「秋刀魚の味」等の名作を生み出した小津安二郎監督に通じると説いた学芸員がいた。戦後の東京の生活を日常の何気ない会話から構成された作品の世界観は、どちらも観る者の心の奥に突き刺さる、感情を深く揺さぶるのは、その等身大の生活感と忙しく前へと動き続ける社会の世知辛さとの対称性があってこそだ。

小津監督の代表作「東京物語」には、名優、笠智衆のたんたんとした物言いや原節子の心に何かを含んだ表情やためらいがちな言葉が、庶民のコミュニケーションとして演出されているが、その細部にわたる人の陰影は、京アニ作品でも発揮されている。

その人の陰影は、この京都の一角で、生活が根付いた場所だから描かれた光と影のコントラストと重なる。そう、「響け!ユーフォニアム」の金管楽器のまぶしいばかりの光沢と教室の片隅の影には感情を揺さぶる表現が秘められていたのだ。

称えるための一歩

「日常なのに感情が入ってしまうんですよね」。

私の関わる特別支援学校を卒業して数年の男性はそう京アニ作品の魅力を語った。

その彼はアニメのセリフを諳んじるのが得意だ。自信たっぷりに謳い上げた口上、その誇らしげな顔つきは、いつもの不安げな気持ちと表情を忘れている。その仕草にいつも私は拍手で賛辞を贈る。

幼い頃の出来事は思い出したくないから、アニメの世界に自分の生きる道を見出した。そこが社会との唯一の「心の」接点だったから、このポイントを手掛かりに、私も関係性を模索し、信頼関係を築いた。だから彼との関係性において、アニメは私にとって恩人でもある。

心に深く根差す感情のコンテンツであるから「オタク」も生まれるのだと思うのだが、それはひとつの「愛」の形でもある。誤解されがちなアニメ作品はひとたび事件に関連すると、異常な精神性や疾患等に結び付けられるケースが常であった。

しかし今回、その傾向が絶滅はしていないが、減った印象が強い。それはアニメの市民権だけではなく、「愛」を表現しているコンテンツゆえのファンのあたたかい心とその行動がなしえたのだと思う。ここから私は新しいケアの価値観を生み出せる、いやアニメで分断された世界とケアで結ばれるのではないかと希望を見出している。

犠牲者の仕事を称えるためにも、涙を流し、茫然と立ち尽くすところから、愛とケアの世界に向けて一歩踏み出してみたい。そう「たまごまーけっと」で表現された商店街を駆け抜けた先に見上げた電柱と空の広がりのように。きっと何かが見えるはずだ。

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