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コラム

居心地のよい空間を増やすためには
「モノ」から脱却、不器用を笑え

不器用と症状

 精神疾患者を主に対象にした就労移行支援事業所シャローム所沢でのこと。脳を活性化させる指先のトレーニング、手先の体操、そして言葉遊び等、脳科学者の指導のもと、「脳」を鍛えるワークショップの最中、参加していた利用者の男性が動きを止めた。放心した様子で、やがてうつむきながら落ち込んだ表情でつぶやく。

「これ出来ないんです」。

そのあまりの落胆ぶりに個別に話をうかがうと、「出来ない」という劣等感は、やがて自分を消したい欲求となり、自死願望に結びついてしまう。「それが怖い」と言う。

 男性は40代半ばで人当りがよく、家電販売店の接客・営業職で働いてきたが、だんだんと心と体のバランスを崩して退職、家で療養する日々を過ごしてきた。「一回に複数の情報処理するのが苦手」と言い、医師の診断は「広汎性発達障害」。この病名は男性の心に重くのしかかり、呪縛となって社会進出への恐怖ともなっている。

 脳トレーニングの運動ができない、という失望に、脳科学者で医師である成田奈緒子・文教大教授は「脳は鍛え直せる」と断言する。脳の仕組みを知り、科学的なプロセスで苦手を克服していく方法は、専門家の指導が必要だが、有効な手立てなのは間違いない。

 一方で私のような社会科学分野の人間としては、「出来ないこと」という認識のとらえ方を考えてみる。出来ないことに対し、「まあいいか」と意に介さない人、「俺って不器用」と笑い飛ばす人、認識さえせずに思考停止させてしまう人など、さまざまな反応があり、精神的な症状はその「社会的」な反発の仕方によるものとなる。この文脈で言えば、「落ち込む」という疾患者の反応は、「鍛え直せる」(成田先生)ことによって改善が可能というのである。このアプローチについては、成田先生にうかがった話を中心に後日お伝えしたい。

モノ化への反発

 最近、家電販売店の店員がイヤホンを付けて職員同士の連絡を取り合い、対応する姿をよく見かける。先ほどの男性は、「一度に複数のことはできない」と言う。人当りのよい接客はできても、接客をしながら無線で指示される業務は「無理だ」と話し、職業選択の幅が狭まったことをまた嘆く。

 これには私も納得で、自分が客の立場で、店員から商品の説明を受けているのに、時折店員はイヤホンからの連絡に集中し、心ここにあらず。目の前のお客はそっちのけの表情を見せる。これは接客のマナーもサービスの誠実さのかけらも感じられない。こうなると、接客する店員も商品と同じようにモノ化してしまうので、対応も無機質になってしまう。このような職場は、モノ化を拒む人にとっては、心地よい場所ではないだろう。

 この男性がそうである。人と話し、感情を行きかわせ、思考を深めて、考えをまとめて、そして発話する。そのプロセスは何の問題もなく、私とは、心地よい響き合いの中で会話が成り立つ。古代遺跡について、民族音楽について、モダンジャズについて、これまでの知識をベースに話を重ねてきた時間は素敵な会話だったと満足する。その時の彼は疾患のかけらも感じさせない状態となる。モノ化から離れた安心の中にいるのが条件といえよう。

 対照的なモノ化空間は、モノがあふれて人の行きかうスペースも狭められているような量販店など、都市に溢れている。モノが大好きなモノカルチャー崇拝者にとっては心地よいのかもしれないが、私は心地悪い。この男性にとっては地獄のような空間だろう。心地悪さを感じる群れはモノ化へ反発する人たち、モノ化に馴染めず精神的な不調をきたしてしまう人たち、病気にならずに踏みとどまりながら、自然なつながりを求める(あるいは待つ)人たちである。

人の空間

モノ化の進行や人の精神世界への浸食は、日本の社会制度や経済的な仕組みも連動しているような気がして、このままではまずい、という感覚がある。東日本大震災後に被災地でボラティア活動を継続してきた立場から、講演や報告、学会での話題提供などで復興の基本概念として訴えてきたのは、「人」を重視した町づくりと地域づくりだった。

これまでの開発の基本路線は「ハードウエア」に「ソフトウエア」が追随する形だったのを、この2つの概念に「ヒューマンウエア」を加え、3つの概念が等しく重要で、連関するという考えである。ヒューマンウエアは、震災直後のボランティアから始まって各地での新たなコミュニティ作りで確実に機能している例を見たときに必要性を痛感した概念である。箱物優先の復興現場では、旧来の縦割り組織の押し付け政策に頼りがちで、結局は柔軟なコミュニティは形成しにくい。

この「ヒューマンウエア」のコミュニティは、存在自体が柔らかく、「人」や「つながり」に焦点を当てているので、ストレスが少ない。結果的に隣人の悩みや心の変調にも対応できるフレキシビリティが発揮される。被災地での「心の労わり」の実現は、このような「人の空間」が機能することが重要で、被災地に限らず、日本の各地域に「人の空間」という「形と思い」があれば、精神疾患者が救われるケースも少なくないはずだ、などと考えている。

既存のコミュニティを活かす

 こんな夢想を実現するには、既存のコミュニティを現代の悩みやニーズに合わせた形に変容するのが手っ取り早い、と考えて、精神疾患者が集まるコミュニティとしてキリスト教会を考えてみた。昨年、キリスト新聞(11月21日)に「教会と地域福祉」とのタイトルで「教会での実践体系化し社会的位置づけを」との記事を掲載した。多くのキリスト教会は、精神疾患者を寛容に受け入れ悩みを聴くなどの対応を続けている場所として社会から評価されるべきで、さらにこの場所は、社会に一部として市民と連動し活かすべきだと思う。実際にシャローム所沢では地域の教会と連携し、教会で開催する精神疾患者の集まりにも参加、就労支援事業所外でも、悩みを持つ人と関わりを持ち、必要ならば支援をしている。

 教会では聖書の教えに則り心の安定を保つのが「信仰」を伝えるという仕事の範囲でできることで、次のステップである一般社会との関わりは、支援するコミュニティの出番となる。勿論、キリスト教会のコミュニティがその役割を担えればよいが、伝統的に宗教に根差した支援が、教会の立場であり役割。お互いに役割分担は尊重した方がよい。尊重の上で手を携えていくことが、悩みの居場所と解消のきっかけになるはずである。そしてこれはキリスト教に限ったことではない。仏教でもイスラム教でも、心の病の解決を宗教の教えに求める人達はいる。その人達の社会進出を考える際には必ず一般社会とのつながりが必要である。

 冒頭の男性の話に戻せば、彼が自分に失望せずに、地域が伴走者となり改善できるところは改善しつつも、できないことは笑い飛ばせるようにさせたい。これは、コミュニティの包容力が大きく影響するだろう。「モノ空間」ではなく、「人の空間」、それはヒューマンウエアという考えで、ハードウエアに対抗しながら連関させる。そうして空間と人とのよりよい接点を見出した時、モノに押しつぶされる人が一人でも減っていく未来図が描かれていく。

(了)

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