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コラム

「同じ命」を学び、そして考える
アフリカの孤児院から学ぶ意識付け

窓の外見つめる少年

 灰色の薄汚れたコンクリート塀には等間隔で窓が設けられている。その粗末なコンクリートに囲まれた大きな部屋には孤児たちが暮らしているが、今はほとんどの子どもたちが窓の外から見える広場で歓声をあげてボール遊びに興じているようだ。

 その歓声を窓からひっそりと眺める子どもがいた。声をかけようかと近づいて感じた彼の後ろ姿は、明らかに「疎外されている子供」の影が差していた。

 アフリカ・南スーダンの首都ジュバの孤児院には、幼児から未成年までがにぎやかに暮らすが、内戦で両親が犠牲になった子供もいれば、何らかの障害により、普通の暮らしが出来ない子どももいる。孤児院では障がい児を「彼らはまた別」と分けて接し、一般の子どもよりも体力が劣ることなども配慮しているようだ。

この孤児院で、世話役の教師らが障がいのある子供に接するのは、その教師個人が持つ資質がなす奉仕の精神やクリスチャニティであり、私が訪れた独立間もない2012年当時はまだ国の制度が確立されていない中(現在も内戦の中にある)、彼らの生存を保証するのは、そのような倫理観が支えであった。

 倫理観があるから人間は平等社会を築き、助け合える。混沌の中で、この孤児院の院長は誰もが「同じ命」だと明言していたが、平等であると考える姿勢は、民主主義の根幹をなすもので、まずはすべての人の命を同じくする、という姿勢が社会構築の途上にある世界で強く求められる。あの日のアフリカのけだるい午後に見た子どもの後ろ姿から、私は多くのことを教えられている。

同じ命

 ビルという高層建築物がないジュバでの「命」と「障がい者」を考えながら、ビルが林立する世界有数の大都市、東京を考えてみる。ちょうど、東京都知事選でにぎやかな雑踏の中から、この視点でみると、各候補者の口から、またそれぞれの情報発信から伝わってこない問題が気になってくる。それが障がい者政策である。

その語られないことは、「豊かな」都市では、アフリカで語られた「同じ命」の人たちへの配慮すら発想にないような印象さえあった。今回の候補者は障がい者問題の専門家ではないのだから、具体的な政策を期待しても無理なのは分かっている。そもそも、候補者は現状が分かっていないはずで、それは候補者の問題ではなく、やはり社会の問題である。

障がい者やマイノリティに関する社会の包容力の問題。だから候補者に失望もないのだが、これを繰り返して、自治体が対策をとらないままでいるのではよくない。

3候補の福祉策

都知事選で大きな組織やネットワークを持つ小池百合子、増田寛也、鳥越俊太郎の各候補のホームページで政策を確認したところ、やはりまともに障がい者政策を訴える文言はなかった。

増田候補は「『子育て』や『介護福祉』の充実に率先して取り組み、都民が、あたたかさにあふれ、不安がなく、安心して生活できる環境・社会の実現を目指します」とし、あたかも福祉の中に障がい者がいないかの視点で、都議会自民党がバックアップする与党候補としては寂しい。

小池候補は「女性も、男性も、子どもも、シニアも、障がい者もいきいき生活できる、活躍できる都市・東京」との見出しで、障がい者を前に出してはいるが、具体的には「高齢者・障がい者の働く場所を創出。ソーシャルファームの推進」とあり、これでは産業政策の枠組みで語る旧知の話である。ただ「ソーシャルファーム」とは何だろう。気になる。

鳥越候補は、増田候補と同様、「子育て・介護に優先的に予算を配分します」として、福祉から障がい者を除外した印象があるが、こちらは社会の多様化を目指す、との謳(うた)い文句の具体策として「男女平等、DV対策、LGBT施策、障害者差別禁止などの人権施策を推進します」と示しカバーしている。しかし、これは自治体が目指すガイドラインであり、政策ではないだろう。

問題化の構造

誰もが福祉策は打っている。基本は子供と老人対策。それには社会背景があるからだという指摘は新しくない。子ども関連で象徴的になっている待機児童の問題は、保育園に落ちた子どもの関係者が「日本死ね」とブログに記し、ソーシャルメディアで拡散し、国会で取り上げられ、メディアも報道したことで、待機児童問題は当事者の問題から、広く世間が共有するべき問題となった。

「子ども」の問題は、子どもが「未来の社会資本」という考え方に転換できるし、子育て世代はネットワーク化しやすい。「子育てママ」という枠組みで、地域の中で相互依存型のコミュニティーを形成するので、その思いや声が大きくなりやすい。

高齢者問題は、国策として介護保険制度導入により、高齢者福祉は国の重点項目であることで、介護関連はじめ経済市場として巨大化しており、経済政策もリンクし、予算の優先順位が高くなる。

 これらに比べ、障がい者問題は「メジャー」にならない。特に精神障がいは、ビジュアル化しずらく、露出が難しい。障がい者が社会を生きるのは、それ自体が壮絶な戦いであり、顕在化した問題なのに、である。それをいいことに、選挙でも対策を掲げることをしない、という悲しい循環が繰り返されている。

まず意識付け

子どもと高齢者に比べて浮かび上がってくるのは、社会がそれを「社会資本」と呼べるか、それを「産業化」できているか、という課題である。何らかの理由付けで、それぞれの領域が社会の居場所を確保し、政策立案と予算化が実行される構造においては、障がい者が自分らしく普通に生きられる社会に向けての「ノーマライゼーション」という概念さえ、私たちは意識付けさえしていない気がしてくる。

 再び南スーダンの孤児院に思いをはせる。支援してほしいと南スーダンの政府要人に言われて訪れたあの場所の子どもたちの顔が未だに脳裏に焼き付いたままだ、支援が必要な子がおり、その中に障がいのある子供がいた。それを等しい命として、支援をしようとする現場の人たちと心より添いながら、何かできないだろうかと思いつつ、内戦ば再び勃発し、支援はできないまま月日が流れてしまった。

現在、首都ジュバでも戦闘状態となり、邦人も首都から脱出した。あの子供たちはどうしているだろうか。首都では銃を持った兵士たちが跋扈し、断続的に聞こえてくる銃声に怯えているかもしれない。それを思うと、胸が締め付けられてくる。

(了)

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