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コラム

知的障害者との関わりをデザインする
相模原事件から私たちがやるべきこと(2)

時差に対応

「娘がね。怖い怖いと言って眠れない状態なんですよ。よほど、ショックだったのでしょうね」。

やはり、という感覚の中で、20代半ばの知的障がい者の長女がいる父の話を聞いた。神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害された事件から約2週間目。埼玉県の入所施設で暮らすこの長女に「恐怖」という心境がやって来たようである。

これには世間との時差がある。情報伝達の時差に加え、恐怖を感じる心理的な時差。この時差には既視感がある。東日本大震災で、震災から数か月後に暴れ出しはじめた宮城県気仙沼市本吉地区の知的障がいの子どもたちだ。

この時差は、「何で今頃?」という疑問が解消されない周囲からは、理解されずに支援が届かない理由でもあった。同時に、メディアの時間軸で見れば、ニュースの旬はすでに過ぎていて、多くはすでに終わった話とされてしまうから、その事実は伝えにくくなってしまっていた。

長女の「恐怖」は、旬を過ぎたために、一般化されることなく、一般的に知られることなく、不安に向き合う家族や関係者が黙々とケアをすることになる、のが通例であろう。

黙々とケア

「黙々とケア」という印象は、それが社会で受け入れられてほしいとの願いと現状のギャップに問題意識を感じているからで、その「黙々ぶり」が広がりを持ち、発展させなければ障害者の「時差」は固定化されて、社会の周縁に追いやられるばかりである。

孤立したままでは何も生まれない。前述の東日本大震災における被災地の子供たちについては、私が東日本大震災の風化防止のために発表したCD「気仙沼線」のブックレットの中で、黙々とルポルタージュで報告し、知り合いのTBS「報道特集」関係者に、その事実を伝え、取材の依頼をし、半年後にドキュメンタリーとして放映されてはじめて広く知らされることになった。その結果、一昨年に仙台で行われた国連の世界防災会議でも当事者の母親が報告できるまでに広がった。

「障がい者」は隔絶された世界にいるために、その時差が発生するし、その時差を固定化しているのはメディアであるから、この壁を乗り越えなければならない。そのためには、既存のメディアが持つ時間感覚に惑わされることなく、事実の積み重ねを怠らない当事者もしくは当事者に近い人たちが、その声をあげることが、メディアの時間感覚を突き破ることになるはず。この際に力となるのは、「黙々と」真剣に事実と向き合うことでしかないだろう。

さらに「津久井やまゆり園」が山の奥に立地していることに象徴されるような物理的な隔絶もある。まず、これを「自然と一体化した理想的な住環境」と見るか、「社会から疎外された社会の心理的な位置を反映したもの」と見るか。この心理状況は、メディアが考える事件の旬の期間にも関係してくる。前述の施設の位置、物理的な位置づけをめぐる問題は、また改めて論じてみたいが、時間の問題と物理的な位置づけは連関していることを認識しなければいけないのだと思う。

公共圏を設定する

 この時差を解消しようと考える時、平等な交わりが前提となる。このツールとしてコミュニケーションを位置づけると、ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバマスが唱える「公共圏」が浮かんでくる。これは、市民的な公共圏が成立するには、公共の空間でのコミュニケーションの過程を想定しているが、現在ではそれが地域コミュニティであり、メディアが形成するコミュニケーションによるコミュニティとなる。

これらのコミュニケーション並びにコミュニティを通じて、政治的な決定がなされていく社会を、民主主義の1つのモデルとしていく中で、隔絶された場所に住む人たち、そして反応に時差が生じる人たちを、「公共圏」に含んでいるのか、という疑問が湧いてくる。

メディアが規定する時間の中で、政府が規定する公共的な空間の中で、コミュニケーションが「完結させていないだろうか」という疑問。相模原の事件で浮かび上がるのは、その隔絶が常態化していることにおける、私たちの深層心理にある障がい者との付き合い方の想像力の欠如である。

個人発信をつなげたい

 ドイツの哲学者カントは判断力の格率(規則)として「他のあらゆる人の立場に立って考えること」を掲げる。今風な言い方をすれば「共感」。それは私がメディアの信頼を回復するためのキーワードとして掲げる「当事者意識」にもつながっていく。

相模原の事件を受けて、事件による影響や社会に与える本質、そして事件そのものが惹き起こされたこの社会の様相の真相に迫ろうとするとき、知的障がい者の本質に迫らなければ、真実は浮かび上がってこない。

その真実を追い求める責任はメディアにはあると思うのだが、「時差」が象徴するように、メディアの時間で物事を判断し行動していては、本質は見えないだろう。

時差を越えて当事者に近づこうとする覚悟を持ったメディアがあればいいのだが、現状、大手メディアには望めないようなので、メディア化を目指す各個人が、当事者に肉薄し発信することを積み重ね、それらがつながっていくしかないように思う。

そのつながりから、社会が知的障がい者とどうつながり、新たな社会形成ができるのか、創造的なデザインできるはず、である。

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