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コラム

「界」で区分けされた社会に「言葉」がない
相模原事件から私たちがやるべきこと(3)

疎外されていなかったか

 相模原事件は、被害者や加害者、知的障がいと精神疾患、さまざまな切り口から分析する必要がある。この切り口から見えるのは「福祉」という世界。ここは、多くが集う一般の社会とは隔絶された印象があり、今回の残虐な事件もその世界が闇と化してしまったために起きた、と見ることはできないだろうか。

この世界を、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「界」概念と照らし合わせてみる。この概念は、私たちの社会を規定し、それが各領域の相互関係を時には阻害している事実に突き当たる。事件の現場となった相模原市の「津久井やまゆり園」を見て、その場所が心理的にも物理的にも社会から疎外されていなかった、という問いかけも浮かび上がってくる。

ブルリュデュー自身によれば、界とは「異なる立場間の客観的関係のネットワーク、あるいは配置と定義できるだろう。この場合の立場とは界の中で争われる利益へのアクセスを可能にするような各種権力(あるいは資本)の分配構造の中での現実的あるいは潜在的な状況や、他の立場との客観的関係(支配、従属、相同性など)によって定義されるものであり、この立場は、その中にいる人や組織にある種の決定を強いるものである」と語っている(伊藤高史『相互行為としてのジャーナリズムと構造化・情報源・界をめぐる社会学的考察』マス・コミュニケーション研究NO.83、2013年)。

 他の立場との客観的関係は、時間概念の違いを生み出すとして、私は「福祉の時間と経済の時間」の違いを別の論考で指摘した。

「障がい者が気持ちよく働くには、『福祉』の時間の流れで、時間を支配する責任者が障がい者に対応し、安心させる必要がある」とし、障がい者雇用を定着させるためには「『経済』と『福祉』の橋渡し役が必要なのだが、どちらの『時間』の流れを採用するのかが悩ましい」。

隔絶された「界」

私たちの社会は、時間に支配されていると同時に相互行為においては、「界」によって、何らかの制約を課せられている。それが、社会を管理するのに都合のよい区分であり、結果的に我々が「安心」を得られることにもつながるのだろう。

人が集合すれば、自然発生的な行為として界は作られるかもしれないが、何らかの力やコントロールが介在し、時の権力が管理しやすい枠組みに押し込められる可能性もあり、それが万人にとって正しいとは限らない。福祉という「界」の中で、重度の障がい者や精神疾患者・障がい者の置かれた界はどうだろうか、と考えてみる。その界は、彼らが望んだものなのか。支援をするための枠組みなのか、管理をしやすくするための枠組みなのか。

さて「津久井やまゆり園」の風景はどうだろう。それは「自然と一体となった環境が良好な場所」なのだろうか。「市街地と隔絶された地域に押し込められた場所」なのだろうか。この点の認識をメディアから読み取ってみる。 

存在の言葉がない

徳島県の重い自閉症で知的障がいがある息子さんがいる福井公子さんは、インターネットサイト「生活書院」の連載記事で今回の報道で気になった点を、こう指摘した。

「障害がある人がこのような施設で150人も集団で暮らしていることに誰も疑問をもたないことでした。関西のある人気キャスターは、プールも体育館も備えていて非常に充実した施設だと。職員も200人以上いるので手厚い支援がされていただろう。そこで仲間たちと穏やかに暮らしていた人たちだと伝えていました。仲間といっても、自分たちの意志とは関係なく、一緒の暮らしを強いられていただけなのに・・・。どんな命も大切と力説しながらも、生活の質は問わない、自分たちと暮らしが違うのは当たり前、そう考えているように思いました」

重度の障害者は一般的な労働や経済活動は困難だから、労働・経済という界から、離れて福祉の界の中にいる。このメディアの伝え方は、客観性ではなく、よそ者の視点である。福井さんはさらに疑問を呈する。

「次の日には、手をつなぐ育成会の会長が親子で登場し、重度の子であっても親にとってはかけがえのない存在であることを語っていました。(中略)それを見てなんだか切なくなりました。親が大切だと言っているのだから、存在意義がある。そう伝えているように感じたのです。社会そのものが、この人たちの存在を肯定する言葉をもっていないのではないか」

その通りで、社会との接点がないから、私たちはその存在を認める力強い言葉がない。それは社会が自覚する必要がある。

熟慮したかという問いかけ

この言葉を受けて、土地の安い僻地の大きな施設で「伸び伸び」「自然と一体化した中で」彼ら障がい者が暮らしていることを私たちは誇れるほど、彼らの事を熟慮したのだろうか、と自問してみたい。そして再度考えてみたい。今回の被害者たちはなぜ、家族とともに暮らせなかったのだろうか、と。

おそらく、家族も生活で大変だし、施設で暮らした方が、支援のプロの人たちに囲まれて安心するだろう。これを否定するものではないが、さまざまな選択の中の1つであればよいところを、そこの選択に追い込まれる、またはその選択をするような雰囲気を社会は作り出していないだろうか、と考え直してみると、先ほどの福井さんの疑問がより心に響いてくる。

存在を肯定する言葉を持っていない-

今回の事件で浮かび上がってくるのは、まさに、私たちの「社会」は障がい者に関する言葉を、存在を確かめる言葉を持ち合わせていない、ということである。それは彼らを「界」に押し込めているから、一般社会から隔絶されているから、であり、コミュニケーション行為が行われていないから、の結果である。

例えば、高齢化社会の到来とともに、高齢者が「施設で暮らすべきか」もしくは「家で暮らすべきか」の議論は、ある程度現実問題として家庭の議論から社会的な議論が行われてきたように思う。一方の障害者は、「家族とともに暮らすべき」かの家庭内議論を行ったとしても、参考とするべき社会的な議論は行われてきたのだろうか。そう考えたとき、あまりにも私たちは、彼らを管理しやすい場所に押し込めてしまっている気がしてならない。 

 今後の具体策については、次号で展開したい。

(了)

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コラムニスト

    報告 ID:rI9jzESpX5

    障がい者は家族と共に暮らすべき、も私はノーマルではないと思います。成年に達すれば北欧ではどんなに重い障がいの方でも、グループホーム、実質1人60〜70平米の広さのホームに住みます。世話人はマンツーマンでした。親が当事者の成長を阻むこともよくあることです。目指すものは理想論かもしれませんが、その方向な気がします。それも本来はグループホームが終点ではなく、地域移行への途上であります。

      報告 ID:lcyM8pPw5r

      I think you have observed some very interesting details , appreciate it for the post. efffekkbecde

        報告 ID:AHkS7M0eCv

        私の、モヤモヤした気持ちを表現してくださっているように思いました。あの事件の後に障害者団体の方がメッセージをだされました。私たちは全力であなたたちを守るので安心してください、と。その私たちが守る?守られている親であるのではないか?と。そうだ!といっていただいた気がします。

          報告 ID:lhYVzx9haq

          19歳当時日本で最初の重症心身障害児施設でアルバイトをしました。1月ぶりにアパートに帰る際、電車内に障害のある人が1人もいないことに強い違和感を感じたことを覚えています。どんなに立派な施設であっても隔離目的なら、収容されている人が幸せとは思えません。

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