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コラム

ドイツ敬虔主義から考える福祉の「大きな一致」
世話を知り、愛を秘め、自由を形にする

大事には一致

 「大事には一致を、小事には自由を、すべてのことに愛を」。

これは17世紀、ドイツ「敬虔派」の父である神学者フィリップ・ヤコブ・シュペーナーの言葉。企業社会でも、社会コミュニティでも、福祉の現場でも、「大きなところでの一致」は最重要で、一致された目標なり、目的なり、哲学なりに向かって、自分なりに小さな自由の中で仕事を展開することは、やりがいや生きがいにもつながる。

精神疾患者向けの事業所を運営する立場として、その「大きな一致」は利用する人々の「幸福」であり、それは国家や社会における大きな一致と「一致」している。だから、自分たちの仕事は社会的にも意味あるものとして位置付けられる、と考えている。

誰もが幸福な社会を、というのは近代国家社会での一致であろうが、幸福に向けて大多数の一般人よりも「障壁」がある人には、障壁を越えるための何らかの行動や支援が必要で、それが「福祉」と呼ばれる領域で日々考え、展開されている。

しかし福祉現場で仕事をしていると、目の前の労苦に追われ、「大きな一致」さえ見失うことがある。その時に、シュペーナーの言葉が効いてくる。くじけそうな時に、「愛」で乗り越えようとする最終手段である。日本社会ではなかなか浸透しない概念である。

硬化への反発

シュペーナーによる「敬虔派」は1670年ごろ、ルター派教会内に起こされた改革運動と考えられている。17世紀の神学者たちにより、改革派教会やルター派教会内は「正統主義」として、ルター主義の厳格な信条告白が敢行され、ルター派教義は硬化していたのである。

公認された一定の語句を踏襲しなければ、排除されるという教義に縛られた重苦しい雰囲気の中、キリスト教の本質は、「定められた信条形式」とみなされた。この中にあってルター派の牧師、シュペーナーは、生き生きとした信仰と、日々の生活における聖化の必要性を説教の中で強調したのである。これが正統主義に対する改革主義が実態だが、形式ではなく中身をとく内容は「敬虔派」と呼ばれた。キリスト教は当時、形式主義の変換期にあったのだろうが、行動に移すのは難しい。

その中にあって冒頭の言葉は、「自由」「変化」を肯定するソフトな言い回しが含まれ、秀逸で汎用が可能。「最後には愛」だから、結婚式のスピーチで「夫婦が仲良くする秘訣」として紹介されても違和感はない。

支援における一致

福祉の「支援」の話となると、「大きな一致」をどこに置くかで、自由の裁量範囲が変わってくる。身体・知的・精神の3つに分類されている障がいによって、「対応する」という行動は違うし、違うために、元来、自由度が高い。

不自由な体の一部になることで、今できないことをできるようにサポートする身体障がい者への対応、物事の社会的な理解を助けて周囲とのギャップを埋めようとする知的障がい者への対応、表面では分かりづらい心の問題に寄り添おうと、つながっていく精神障がい者への対応―。すべては違う。だから一致は見えにくい。

そのため、私は他者への「時間への尊厳」が大きな一致のひとつではないかと考えている。当時者の時間を共有することについては勿論、例え相手の求めに応じた末に行動した時間であっても、万人に平等に分け与えられた時間を相手に費やさせることは、その人自身の財産を分けられていることになる。

その時間への慈しみこそが、その人の尊厳を守るのだ。それはケアという言葉や行動を越えて、よりよい関わり合いこそが、時間への尊厳という大きな一致ではないだろうか。

福澤諭吉の見解と日本の伝統

こう考えると、キリスト教の「愛」が根本になければ、と思ってしまいがちだから、福澤諭吉の「世話」への考えをひもときながら、日本のなじみ深い文化と融合させて考えてみたい。「ケアする=世話をする」の論考における福澤の見解はこうだ。

「『世話』の字に二つの意味あり、一は保護の義なり、一は命令の義なり。保護とは人の事につき傍らより番をして防ぎ護り、或いはこれに財物を与え或いはこれがために時を費やし、その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。命令とは人のために考えて、その人の見に便利ならんを思うことを意図し、不便利ならんと思うことには異見を加え、心の丈けを尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり」(世話の字の義)。

この世話の二義性についてはさらに「世話の字に保護と指図と両様の義を備えて人の世話をするときは、真によき世話にて世の中は円く治まるべし」(同)と結ぶ。これが政府と人民という公私の間を「円く治まる」要諦であるとの指摘である。

確かに、保護と命令に日本人は飼いならされてきたかもしれず、世話の言葉から伝統的な公私関係もうかがえる。この伝統を今も引きずり、私も精神疾患者の手続きに関する行政の対応で、「決めつめ」「恫喝」「不遜」な態度に何度も遭遇してきた。これこそが世話における「指図」の間違った解釈であり、ドイツのルター派の伝統主義。私たちの現在のコミュニティは相互扶助の領域は拡大し、指図ではなく、相互理解の関係性を築いている途上にある。この認識を行政で広げていってほしいのだが、やはり当事者や当事者に近い立場から声をあげていくのがよいだろう。大きな一致と小さな自由を常にセットで考える体質に改善することで、未来が見えてくるような気がする。

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