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コラム

権威が自画像を描く危険と
「ケア」なる言葉で社会変革を

報告書の中の自分

ここに紹介するのは、44歳の男性が関東地方の中規模の精神病院で出された「心理検査報告書」である。ロールシャッハ・テストの結果として以下の記載があり、末尾には実施者として、臨床心理士の署名と押印があった。

「きわめて内向的な人であり、自分の感情を表現することがほとんどできず、ものごとを主観的に考えやすいところが特徴である。社交的な場面ではまったくスムーズにふるまうことができない。おどおどして困惑するか、逃避するか、といった行動になってしまう。社会適応性も低いといえよう。共感性のある人ではあるが、それが良好な人間関係に結びつくというより、他者の考えや感情が気になって、過敏になってしまうのだろう。ものごとを悪くとって、抑うつ的になりやすいところもめだっている。神経症のレベルの人と思われる」。

情報伝達の凶暴さ

この報告書の対象者は、何の説明もないままに受け取り、記載された「事実」に直面することになる。「自分の感情を表現することがほとんどできず」「おどおどして」「ものごとを悪くとって」「神経症レベル」などの言葉はこれでもか、という「事実」を突き付けられ、この男性は自分が考えていた自画像とは違う報告書内の姿だった。

本人はテストの結果として記載された自画像に苦しめられることになる。この本人をよく知る私としても、内容は驚きであった。地元のバンドのメンバーとして広報活動をし、大手家電販売店で接客業務を長年勤めていた彼が「きわめて内向的」とは理解ができないからである。

勿論、ロールシャッハ・テストはじめ心理検査に関してはいまだ完璧なものはない。実態と離れてしまう部分もあるだろうが、私が気になるのは、評価基準があいまいなまま、人を簡単に表現してしまっている情報伝達の凶暴さを医療従事者は自覚しているかという点と、言葉を書く・表現する、ということにおける自覚についてである。

言葉をどう紡ぐか

 これは医療従事者だけでの話ではない。こうやって記事を書いたり、ラジオで見解を伝える立場だったり、当事者と向き合ってコミュニケーションをする自分も常日頃考え・思い悩む課題である。

 適切な言葉をどう紡ぎ、伝えていくか、は自覚的であればあるほど、苦悩の連続である。

今回の件は、病院から個人に報告書用紙というメディアを介して伝えられたメッセージには、絶望につながる記号だけが連ねられていた、というのが本人の感覚だろう。これこそが現在、日本社会でおきている「メディア不信」を解釈するのに有効な、伝える側と伝えられる側の相互不信ではないだろうかと考えてみる。病院という権威の中で、ロールシャッハ・テストという形式に則り、出た結果を伝えることを繰り返してきた業務フローの中に、いつの間にか「当事者の気持ち」、さらには「当事者は心を持つ」ことを忘れてしまったような気がしてならない。

そして、マスメディアも同じ状況に陥っているとは言えないだろうか。当時者視点は古くて新しい問題であるが、受け手目線や当事者の心を省みる情報伝達を心がける行動が、ケアを伴うメディアということになる。それが、私が今、取り組んでいる「ケアメディア」の自画像でもある。

記号化乗り越えて

 報告書はどのように書けばよかったのだろうか、と質する人もいるであろう。報告書ではっきり書くことによってこそ、テストの目的だと言う人もいるであろう。まったくその通りで、目的は同じである。それを「自覚的に」正しい答えを正しい言葉で伝える、のが重要である。

 しかしながら、冒頭の言葉の羅列の中では、比較することよって生まれる言葉の数々には、絶対評価なのか、相対評価なのかの記述がなく、それぞれの基準も分かりにくい。「なぜ」そう言えるのか、の「なぜ」に対応する言葉がない。当事者目線で文章を綴ろうとするならば、答えの前後を考えるのが、ライティングの基本である。この基本を考えれば考えるほど、語彙力は向上する。報告書といえども、伝える日本語は豊富であった方が、確実な現実描写や表現に近づけるはずだ。

 言葉は伝える事象の記号化に過ぎない、という議論は知っているが、その記号は時に感情を揺さぶり、人の気持ちを上下させてしまうのだと思うと、単なる記号ではなく魔法仕掛けの呪文でもある。それを自覚する必要があるだろう。

ケアを考える言葉

 まずは言葉を考えたい。「ケア」の思想を、何らかの「メディア」(媒体)にのせて伝えるという考え方を意識することによって、言葉が柔らかくなり、発信者の言葉への自覚を促すものになる。

ケアとメディアは、よりよい共生社会を目指す者にとっては相性のよい、親和性のある言葉として取り扱われるべきで、既得権を守ろうとし、分断させることで権力・権益を獲得できる層や、従来のやり方が楽だと考えて、ニーズに応じたくない人にとっては、やっかいな存在かもしれない。

しかしケアはつながりそのもので、それは市民のつながりや助け合いを生み、この言葉を検討することはすなわち、良いジャーナリズムと悪いジャーナリズムを判断する機会ともなり得る。医療の現場で言えば、権威で言葉を繕うのではなく、当事者視点で言葉を練り上げる自覚がまずは持つ必要があるだろう。よい言葉は良い環境を作りだす源泉であるはずだから。

そして、それは医療従事者だけではなく、すべての人の課題なのだと思う。

(了)

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