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コラム

はたらく、とは何なのか
自閉症者の「俳優業」から考える映画作品

独特の映像体験

 知的障がい者が映画の「俳優」に取り組む姿を通じて「はたらく」ことを考える映画作品「はたらく」(齋藤一男監督、ロゴスフィルム製作)が完成し、お披露目の試写会に参加した。自閉症のしょうへい(長田翔平さん)を主人公として、齋藤監督はしょうへいとともに映画撮影をするための練習を始めるが、台本が読めず、指示通りの行動が出来ないために、進行ははかどらない。その過程での齋藤監督の苦悩と仲間たちの奮闘、最終的に出来上がる「作品」を通じて、障がい者が「はたらく」ことについて考えてもらう野心的な作品だ。

「ドキュメントとフィクションの狭間を行く今まで見たことのない独特な映像体験」が宣伝コピーになっているが、作品全般では、演技者である主人公のしょうへいが、監督のコントロールの下にありながら、一般的なコントロールが効かない中で自由に振舞っている。映画はそのぎりぎりの自由を内包する形で表現しており、作品はノンフィクションなのだろう。だからこそ、映画が持つメッセージは強く鋭く、「感じる人」には、一般的な「はたらく」という価値観を揺さぶられ、なおかつ先入観への問いかけが、鋭く突き刺さってくるのだ。

監督の葛藤

 しょうへいは知的障がい者である。自閉症により、一般的な労働に従事することが出来ず、知的障がい者向けの作業所で社会生活を送っている。齋藤監督は、この作業所にかかわりを持つことで、しょうへいと信頼関係を結び、「俳優」という仕事への可能性に挑戦することから話は始まる。

そこで見えてくるのが、しょうへいの「出来ない部分」と「その多さ」。私たちが日々活動する中で当たり前に出来ている部分が彼には出来ない。出来ないことをカバーしようと周囲は考えて行動するが、やはり出来ない。周囲の努力も空しく、しょうへい自身は集中力が維持できず、休んでしまう。

それでも齋藤監督は福祉への理解をもつ善良なる市民として、我慢しながら接し続ける。ここにジレンマを感じる人もいるだろう。しょうへいの態度を努力の放棄だと嘆く人もいるかもしれない。そのジレンマや嘆きこそ、この映画の大きなテーマだ。

そして面白いのが、齋藤監督もそんな「出来ない人」との「共生」を夢見ながら、いつしか俳優業の何かしらのスタイルに「強制」しているのではないか、というジレンマに気づくことである。齋藤監督自身の葛藤は「よき社会」の葛藤であり、齋藤監督自身が「よき社会」なのである。障がい者に同化せよ、という「この社会」である。

 それは本当の共生なのだろうか―ここで問いかけの輪郭がはっきりしてくる。

「不完全」の問題提起

 通常、私たちが見るのは完成品ばかりだ。巷のテレビや映画は、完成されたストーリーや俳優、撮影、音楽で構成されている。ドキュメンタリーにしても、見やすさが重視され、明快な主題設定のもとに何らかの結論がそこでは示される。

 プロの俳優が「障がい者」を演じる作品は勿論、リアリティを追求し当事者が出演することがあっても、やはり何らかの「強制」により演技者として、または編集の工夫により作品として「見せるもの」へと完成されていく。それは作品として当然の作業であり、

それはすべて「完全」に出来上がっている。

 完全に対し、この作品は「不完全」である。それは、俳優のしょうへいが、私たちが日々感じる「俳優」としてのプロフェッショナリズムを持ち得ていないからにほかならない。加えて、俳優という役割を通じて、世の中に作品の意図を伝えようという意志は伝わってこない。

 だから不完全である。

 でも、それを決めているのは何なんだろう。社会通念か、自らの経験値か、世間の暗黙知か。何を根拠に私たちは完全と不完全を決めているのだろう。

突き付けられる価値観

試写会後の参加者の反応の中には、最初に「何も出来ない」存在として登場したしょうへいが、最後には「何か出来る」ということを期待している自分がいることを吐露する声があった。それは、この映画に限らず、私たちは最初と最後を比較して、時間の経過とともに、関わり合いの時間の長さに応じて、知らずのうちに対象に「成長」を求めているのであろう。

この作品の中でのしょうへいは演技をしようと試みる場面はあるもののほとんどが素のまま。言われたことができなかったり、期待する返答がなかったり、仕草が乱雑だったり、すぐに疲れて休んだり、いつも自分のペースを崩さないでいる、そんな生き方に私たちは直面することになる。そこに期待する成長はない。

それが、しょうへいという1人の人間なのである。

実は、私たちの生活の中で、自閉症の家族や関連の仕事に携わっていない限り、このような素のままの自閉症の方の行動に接することはない。テレビや映画で扱われたとしても、ほんの一部が切り取られただけの、断片のうちの細部のほんの欠片に過ぎない。

だから、この作品を「独特な映像体験」とも言えるのは、そんな未知との遭遇でもあるから。

交差点に立つしょうへいの映像は、何気ない立ち姿や顔のアップで私たちの心に迫ってくる。彼がそこにただ「いる」だけなのだが、その前にしょうへいで「ある」ことに気づかされる。私自身は「ある」と「いる」の距離感に気づかされるのだ。

作品は今年末以降上映予定で、現在は試写活動を中心に行い、上映の協力者や普及などに賛同する方を募っている。詳細は、ロゴスフィルム(http://www.logosfilm.jp)まで。

(了)

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