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コラム

問題を可視化し「憤り」を追え!
メディアが報じる貧困問題の限界と希望

違和感が鮮明に

 先般、上智大学メディア・ジャーナリズム研究所主催で行われたシンポジウム「見えにくい貧困をいかに可視化させて報道するか」でパネリストとして登壇した大手新聞記者の方々の貧困問題に対する取材方法や問題への認識をうかがいながら、私がこれまで抱いていた違和感はより鮮明になった。

メディアにいた頃から抱き続けてきたその違和感だが、私はそれに立ち向かってきたつもりでも、何を相手にしているのかも不明瞭のまま。そのおぼろげな対象を見据えて、実践者並びに研究者として「ケアメディア」という概念を打ち立てて、支援者として当事者により近づく試みとともに、発信を考えてきた。そして、今、実感として大手メディアが貧困を報じることには限界があり、その限界を知らないまま、報じたつもりになっている無自覚さが世間とのかい離となり、大手メディアと世間がだんだんと離れていっているのを感じている。

 あらためて考えると、私は数年前、そのかい離が進行するメディアという場所にいたくなかった、のだ。共同通信特派員を終え、東京の本社外信部に戻ってほどなくして退社した理由は、当時は周囲にうまく説明ができなかった。それが、現在、支援者として当事者に近づき、ふと自分がいた場所を見てみると、少し分かったような気がしてきたのである。

同時にそのかい離しているという現実は、「ケアメディア」を推進する立場として、立ち向かわなければいけないことにもつながる。

そしてこれは私だけの問題ではなく、この社会の問題である。

今横たわる現実の一部として、シンポジウムでの発言を紹介したいのだが、参加した方々への批判はするつもりはない。発言は大手メディアの記者という立場ゆえの構造的な問題であり、私の問題意識はメディア企業の体質でも記者個人の認識ではなく、それらを生み出している危ういメディアの居場所である。社会に対する居場所、当事者と寄り添う居場所、権力に対峙する居場所、もしくはそれぞれの対象と同化してしまう居場所など。

取材によってその居場所を微妙に変えながらメディアは的確なポジショニングをしていくのであろうが、それは健全なる対象との向き合い方があってはじめて成り立つ。今回指摘するのはその前提の話。シンポジウムで展開された、いくつかのうち、気になったのは大手新聞社の中堅女性記者とベテラン男性記者の言動である。

人をモノ扱いする構造

女性記者は貧困問題の一部として公立中学校の制服価格について紙面を通じて問題提起したことで注目された。取材はSNSで集めるという新しい手法であった。取材の発端は貧困が関連した殺人事件の公判で、殺害と借金、そして制服のお金が払えないことなどが関連していることが分かったことから、制服価格を調べはじめたという。

この説明をする際に、女性記者は軽い調子で「殺した」と言葉を連発していた。それに私の心は敏感に反応していた。「殺した」という、その物言いに反発を覚えたのである。日々、生きるのにも死ぬのにも敏感な感覚でいる当事者と関わる立場としては、簡単に「殺した」と肉声で伝えられると、繊細な心を相手にしているだけに、違和感と嫌悪を覚えてしまう。人の生死を簡単に記号化してしまうことは、つまり、目の前の命に真摯に向き合っていないという態度そのものであり、この言動は記者の基本姿勢を象徴しているような気がして、どんな取材手法を使おうが、出された結果の説得性には欠けてくる。

この感覚は私だけではないかと隣席した一般参加者にも聞いてが、やはり違和感を覚え、怒りに近い感情があったと述べていた。

 一方、大手新聞社のベテラン男性記者については、貧困問題を長年担当した経験は確かだが、それによって示された論が「貧困」であった。貧困問題は多面的であることを論じながら、「自分は新聞社に勤めているから、そこそこの給料がある」と説明した上で、2人の子供が大学生であることから「生活は苦しい」とし、「何を貧困とするか」との論を展開した。

これには、私も閉口してしまった。絶対貧困と相対貧困の議論はあるにせよ、基本的に社会保障が行き届かず、何らかの困難さを抱えて陥ってしまう貧困を私たちは支援が必要な存在として認識し、その対策を考えるのがそもそもの貧困問題への対応である。

収入の高い人が個人的な消費活動により生活が苦しいと嘆くのは、次元を異にした経済政策の問題である。それを一緒に議論されてしまっては、話は成り立たない。

しかしながら、これらの認識が大手メディアの語る貧困問題の立脚点である。メディア報道で本当に社会が貧困に向き合うことが出来るのだろうか。

ねつ造への誘惑

さらに私には驚きがあった。モデレーターの水島宏明・上智大教授から、東京新聞が貧困問題を伝える記事の一部を「でっち上げた」問題に関連し、貧困問題を報じる中で「ねつ造への誘惑があるか」との問いかけに対して、大手新聞社の記者2人は、(誘惑は)「ある」と返答したのである。

それは純粋な驚きだった。「人を殺したいか」に対して「殺したい誘惑はある」と言うくらいの驚き。私が当然のように思っていた記者の倫理観は崩れた。テレビの世界ならば映像の見栄えを重視するばかりに誘惑の存在は理解できる。しかし、ファクトで勝負するはずの新聞記者にとっては次元の違う話と思いきやそうではないらしい。

 そんなメディアが伝える貧困問題だから、最近は報じたことにより、社会の何かを動かし、大きなムーブメントになることはない。これまで違う場面でも指摘しているが、貧困問題を概観すればするほど、各種の問題と結びついてくる。精神疾患につながったり、企業の劣悪な労働環境であったり、ミクロな人間関係によるトラブルと生きづらさ、そして教育問題など。

貧困問題はただ貧困問題ではありえない。広くつながり、しかも複層化している社会問題であり、それをある時点、あるポイントで切り込み、ファクトを示すのが、ジャーナリズムの役割であろう。ねつ造するまでもなく、現場にいる立場としては、取材すればするほど、接すれば接するほど、新しい事実というニュースに突き当たる、と確信を持って言える。

ただ、その現場に記者がいないだけである。その現場まで記者がたどりつかない、だけだと思っている。

現在、私は「書く」という立場を置いて、「支援」という立場で現場に立ち続けていると、「書ける」ものが多いのを感じる。見せなければならない、可視化するべき断面も四方八方に存在する。しかしながら、それを書くと「支援者」としての信頼を失ってしまうから、やはり私は書かない。このコラムのように、大枠を論じることが出来てもディテールはやはりジャーナリストやメディア人が的確に伝えるのが、彼らの社会的役割だと思うから、たどり着いてほしいと願っている。

「感動」では変わらない

そこで希望の話である。シンポジウムに出席した首都大学東京の阿部彩教授は、貧困問題を報じた後の視聴者並びに読者の反応を4つのタイプ「ほっとする・心配になる」「同情する・悲しくなる」「Amused・感動する」「憤る」に分けた上で、報道における可視化が目指すのは、「憤る」であることを明確に指摘した。貧困問題は解決しなければならず、それは「憤る」から出発すると言及した。

貧困を解消するために社会保障や社会構造の問題を考え、必要な支援や措置を行うために、私たちは情報を行き交わす。そのことを知らず、小さな問題意識の「見せ場」を提供するだけでは、「感動」や「悲しみ」を伝えたとしても、何も変わらない。「憤り」は、私たちが貧困や不正など是正するべき問題解決に向けた必要な心のあり様である。

憤るべき素材を提供して、改善に向かって力を発揮する。私も日々、支援をしながら感じるのは、生きにくさを感じている方々の抱えている何かを共有しながら、やはり現在はどうにもならない憤りがあるから、前に進もうと思うのである。可視化は憤りを促すためにある、と考えてもよいくらいメディアには自覚が必要だ。メディア自身の憤り、も促したい。

(了)

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コラムニスト

    報告 ID:YVOSJxISwg

    なぜ自分の子どもにいま大学生が2人いて学費負担で生活が苦しいという話をちょっとしたのか、説明不足だったのは確かなので、補足しておきます。
     自分が貧困だとまで言ってるわけではありません。しかし、全く関係ないことでしょうか。どこからが貧困で、どこからが貧困でないという線引きをして、貧困である人と、そうでない人を分けると、そうでない人々にとって貧困は「他人事」になります。正義感または同情の対象です。はたしてそれでよいのか。どこからが真の貧困かという問題の設定は、「本当に貧困な人だけを救済する」として生活保護の範囲をどこまでも狭めていく政府・自民党の姿勢、さらには昨年、NHKニュースに出た女子高生に対するバッシングのような発想(食事や趣味のことを取り上げて、あんなの貧困じゃないとたたく)、あるいは生活保護の利用者への攻撃(外食や旅行など論外、喫茶店にも行くな、などと言う)と、地続きなのです。
     国民生活基礎調査では、生活が苦しいと答えた世帯が年々増えている。真に困っている人だけを助けるという考え方ではなく、生活に必要なことに関する困りごとは広くなくしていくという普遍主義の考え方が、貧困問題の解決に重要なのです。「他人事」に対しても正義感で憤れ、というと、一部の人たちはそういう感性を持って行動しますが、それだけでは、社会を動かすのに限界があると考えます。
     また、大学生の学費の負担を、個人的な消費活動ととらえてよいでしょうか。高等教育は本人の利益のためであって、その学費は自分の好きで使っているお金でしょうか? それは中曽根臨調以来の受益者負担論です。そういう考え方に基づいて学費をどんどん上げ、奨学金を学生ローン化した結果が現在の状況です。親の生活苦、若者の貧困、教育の不平等をもたらした大きな要因です。
     ついでだから、捏造の誘惑にも触れておきましょう。念のためですが、私は記事で捏造したわけではありません。しかし新聞記者の仕事の中で、そういう誘惑はジャンルを問わず、少しはつきまとうものだと思います。締め切りが迫ったときや、部分的にわからない点をどう埋めるかで苦しんだときなどに。捏造を考えること自体が論外、と言ってしまうと、きれいですが、何の対策にもなりません。誤報も捏造もありうることとして対策を考えないといけない。医療事故や非倫理的な医療行為を「あってはならないこと」と言うだけでは、何も役に立たないのと似ています。あるいは政治家や公務員に汚職の誘惑はあるでしょう。頭ごなしに「そんなのありえない。公務員失格だ」と言うだけでは、防げないのです。

      報告 ID:M10zuPztgD

      一方的な論評、拝読しました。登壇した私の説明に不十分な点はありましたが、人間の受け取り方はいろいろなんですねえ。

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