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コラム

身体拘束と医療の権威、社会のバランス
考え、問い続けるコミュニティを求めて(下)

医療とメディアの権威

 日本で働いていたニュージーランド人の英語教師ケリー・サベジさん(27)が、神奈川県の精神科病院で身体を拘束された後、心肺停止し、急死した事案について、本稿(上)ではメディアの反応とそれがつながっていく社会の認識について論じたが、今回は「身体拘束」をめぐる議論を活発化させるための視点を考えていきたい。

 精神疾患者に対する身体拘束は「よくないことではあるが、全否定はできない」というのが、メディアの立場であるのだろう。それは医療の現場も概ね同意見と思われる。身体拘束による自傷他害行為の危険性と、高齢者の認知症の場合には安全確保の側面が大きい。その認識が普遍化されるには、日本の場合、権威によるガイドラインが大きな影響を及ぼす。この場合の権威とは、医師を中心とした医療界とメディアであり、この2つの考え方の最大公約数は静かに国民的意見となり、日本で常識化する。

 今回、その権威の枠組みを問い直そうというのが、サベジさんの失われた生命を受け止めての主張だ。すでに私たちは、彼が死ななければいけなかった理由を考え、その事実と背景を客観的にも見つめなおすプロセスの途上にいるのである。

「一切やめる」からはじまる

 私たちの社会は危機管理に敏感だ。事故の予見に神経を使い、その回避や対応を考える思考回路は時に慎重すぎる場合もあるが、それが都市を作り、インフラを整え、数々の「安全神話」を生み出してきたのも事実である。東日本大震災の福島原子力発電所の事故では、その神話の崩壊を信じられずに「想定外」なる言葉で理解しようとしたメンタリティもやはり、危機管理への強い自負があるからかもしれない。

 だから、拘束については、「もしも」の想定が悲観的になるばかりに、拘束具を用意する。用意があるから、その拘束具を使い、安全を確保するという考えになる。例え、病院の理念が人の尊厳を謳っていても、目の前の、現在の、安全の確保が優先されることに私たちの社会は慣れてしまっている。だから、拘束へのハードルは低いままだ。

 それは数字にも表れていて、サベジさんの遺族とともに記者会見に同席した長谷川利夫・杏林大学保健学部教授は、日本において精神科病院の身体拘束が2014年までの10年間で倍増していることなどを説明した。その上で日本の精神医療分野の問題点を指摘し、今回の事件をきっかけに拘束を廃止する動きを活発化していく考えを示した。

 一方で拘束を見直す動きも17年前から始まっている。介護保険法施行前の2000年、ケアの実践により身体拘束の廃止に自ら取り組んだ施設・病院の従事者を中心に話し合い、抑制の定義を明確化し、特定非営利活動法人「全国抑制廃止研究会」(東京都)が発足した。高齢者の介護を行う施設で身体拘束を「原則禁止の規定」とし、施設によってはこれまでの方針を変える必要が出てきたのである。

その時期、これは改革であった。

同会では身体拘束廃止に向けて効果的な方法として「一切拘束は止めよう」という方針を明確に打ち出すこと、としている。同会の調査では、方針を打ち出した施設と打ち出さなかった施設とでは、拘束する割合は約25倍の差があるとしている。

つまり、「一切なくす」という明確な意思表示が現実的にも抑制につながるという指摘である。

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オープンダイアローグ

最近でも大手紙が調査報道で写真付きで「不当な」拘束の実態を報道したり、自治体の発表で不適切な拘束があったとの発表を受けて、世間に医療現場での拘束の実態が明らかにされることはある。しかし危機管理に囚われて、「一切はやめれない」という抵抗感からか、是非の議論は進まない。ならば、コミュニケーションのプロセスの変化を試み、そのコミュニケーション手法を変えるのが効果的かもしれないと考え、以下オープンダイアローグを紹介する。

これは精神疾患者に関するコミュニケーション行為による新たな治療方法と紹介されており、「急性期精神病における開かれた対話によるアプローチ=Open Dialogues Approach in Acute Psychosis」と呼ばれるように、主な治療対象は発症初期の精神病で、社会ネットワークを活用した精神科ケアとしてフィンランド西ラップランドのケロプダス病院が拠点である。

日本に紹介している精神科医の斎藤環さんの著書『オープンダイアローグとは何か』によると、統合失調症を発症したケースを2年間追跡調査した結果、入院期間は約19日間短縮され、抗精神病薬が必要とされた事例は全体の32%のみ。82%の患者で精神症状はごく軽いかまったく見られず、障害者手当を受給している患者は23% 、という成果が示されている。

 斎藤さんが「ここには確実に、精神医療の新しい可能性があります」 と絶賛するもので、開発者のヤーコ・セイックラ氏の説明によると、オープンダイアローグは「技法」や「治療プログラム」ではなく、「哲学」や「考え方」である、という。2016年5月に京都で行われたセミナー で、出席したヤーコ氏とトム・エーリク・アーンキル氏は疾患者と対話をするソーシャルワーカーら支援者は客観的でなければならない、という常識に対しこんな発言をしている。

 「『私の職業的理想は、主観的ではなく、客観的であり続けることです』」という人がいますが、それは不可能でしょう。もし可能だとしたら、その人は人間ではなくなってしまいます。ダイアローグのなかに客観的素点が存在する、と自分が考えているあいだは、他人の話を傾聴していないのだと思います。そういう態度は、他の人に対してこう考えるべきだ、こう聞くべきだと言っているようなものです。それでは、自分の見方に同調しろと強制しているのと同じです」

「開かれた」水平型コミュニケーション

対話に関するこのような見方は、メディアによるコミュニケーションの視点からも、「水平の対話」と「垂直の対話」という概念に新たな可能性に気づかされる。これは「集合的モノローグ」の解消の1つでもある。集合的モノローグとは、多くの人が集まっているのにもかかわらず、それぞれが「独り言」の世界から出ず、対話になっていない状態のことで、参加者は自分の話をするだけで、相手の話は「聞いたフリ」「わかったフリ」 をするだけで、本当の意味で相手の話を聴いていないことになる。これを解消するのに必要なのが「水平の対話」と「垂直の対話」である。

そして今、私たちはこの対話を実行する時に来ているのではないだろうか、と考えてみる。拘束をなぜやめられないのか、危機管理のために、何が必要なのか、深く考え、医療やメディアの権威から解放されるのは、このどんな人も等しく「オープン化」された水平型のコミュニケーションが有効な気がしてならないのである。

身体拘束を切り口に、人の尊厳に重きを置いた新しい医療の現場、そして社会支援の在り方を考えていきたい。日本人であれ、外国人であれ、やはり1人の死に対し敏感でありたい、と思う。

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