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コラム

精神病院をなくした街、イタリア・トリエステを訪ねる(中)
哲学的思考と精神医療の親和性について

廊下で思索するバザーリア

 緩やかな登り坂になっているサン・ジョバンニ公園の中心を貫く道を歩いていると鉄製の高さ2メートル以上の馬が立ち現れる。手前の「精神保健部門」と書かれた看板を強調するような顔を上げた馬の姿は雄弁だ。それが、サン・ジョバンニ精神病院時代に敷地内を運搬用に往来し、患者から親しまれていた馬「マルコ・カヴァッロ」のモニュメントだと分かれば、尚更に、それは墓標にも近い感慨を帯びてくる。

 マルコに誘われ、施設内にはいると白い廊下の壁にはいくつかのバザーリアの写真と、バザーリアの改革によって解放された病院時代の写真が飾られている。誰かに話すバザーリア、トリエステ県代表のミケーネ・ザネッティと立ち話をするバザーリア、病院内で苦悩する患者の写真を背景に書き物をするバザーリア―。さまざまなバザーリアの表情に触れ、バザーリアという人に近づいたような錯覚をしてしまうが、なぜか近づけない、感覚もある。

 それはどの写真も真から笑っている表情はなく、常に思索を積み重ね、奥深い信念と向き合っているような印象だ。後世に「カリスマ」と表現されたバザーリアの、その表面化されていない「表情」は同時代に生きた人しかわからないものなのだろう。

思想化した精神医療

 1980年8月に脳腫瘍のため56歳で亡くなったバザーリアの死はあまりにも早すぎた。バザーリアの尽力により精神病院廃絶法(180号法)、通称「バザーリア法」がイタリア国会で可決したのが1978年。改革の拠点となったサン・ジョバンニ病院が閉鎖されたのは死去を同じ1980年だったが、180号法可決後も反バザーリア派の反発や攻撃は絶えず、同法の有効性に関する議論が続いている最中だった。バザーリア自身はトリエステでの改革は後継者に託し、改革の舞台をローマに移した後の突然の死であった。

バザーリアの死で反対派は1980年代に13本もの法律を国会に提案し、バザーリア法の有効化を阻止する行動に出た。これに対抗したのが上院議員となったバザーリアの妻、フランカや社会学者たちだった。

その戦いは10年以上に及び、結果的に1994年、大統領令によりトリエステで行われた改革である「地域精神保健サービス」をイタリア全土で行うこととなり、精神科病院の3年以内の廃止が決まった。バザーリアの改革は大きく実を結び、現在の「精神病院のない国」という形容に結び付くのである。

ここには「精神医療」の世界に留まらず、哲学と社会学の見地でバザーリアは精神医療を見て、語り、結果的にそれが後世にも長く人々に影響を与え、改革機運を鼓舞し続けてきたことにつながったのだと考えられる。バザーリアの改革は医療改革ではなく、社会改革であった。トリエステの改革で仲間としたのは、社会変革に燃える若き研修医たち。医療の世界に染まらない彼らは純粋に患者の治療を考え、行動した。彼らにバザーリアの思想はうまく溶け込んでいき、彼らの熱のある行動がメディアを通じて伝わった。それら活動の記録は写真などで今もその熱気を垣間見ることができる。

思想家する精神医療、は今もメッセージを与え続けているのだ。

哲学から見ると

 盟友であったトリエステ県代表の政治家ザネッティはバザーリアの思想形成について「ジャン=ポール・サルトル、メルロ・ポンティ、フッサール、ハイデガーといった人々にも霊感を与えた実存主義や現象学といった重要で豊かな哲学的知識の集積だった」とした上で「彼は並外れた器の大きさと、一人の人間としてまた社会的な存在としての繊細さを兼ね備えていた。こうした彼のすべての資質が、病それ自体ではなく、病を抱えた人間を最重要視させた」(※1)と論じている。

 実存主義をサルトル思想の中で考えると、「生きている自分の存在である実存を中心とする」主義であり、「実存は本質に先立つ」。そして「人間は自由という刑に処せられている」とする。サルトルはノーベル文学賞も「どんな人間も生きているときに神格化されるに値しない」と受賞を拒否し、実存を誇大化することを徹底的に拒んだ。

ポンティは「知覚における認識を生成」することを模索し、フッサールは現象そのものに注目する「現象学」の確立を追究、ハイデガーはその現象学手法で、存在の意味を明らかにしようとしたが、ザネッティが挙げた哲学者の領域や系譜の中に精神科医のバザーリアを位置づけたとき、バザーリアの行動は、実存主義や現象学の哲学的思考の行動する形とも受け止められる。

精神医療が患者の行動を制限した時代に「自由」を目指した言動は、存在、についてのバザーリアの深い思考が根本にあった。だからこそ、バザーリアの言動は、時と場所を超えて今も実存主義や現象を思考の中心に置こうとする人たちから支持を受けている。

長年かかった全廃

 トリエステの精神医療改革は1975年に地域精神保健センターを設立し、病院ではなく保健センターで退院患者を受け止め、デイサービスを行うことで地域移行する仕組みを稼働させたことから始まった。

 現在は地域内を人口約7万人毎に1つのゾーンとして、1から4の区域に分けて精神保健センターを中心にケアが行われている。このケアとは、服薬や生活支援、就労支援、そして救急への対応であり、日本でいえば「医療対応」と「福祉的対応」が包括して行われているイメージである。

 トリエステの精神保健センターの患者に対するスタンスは様々な文献で報告されており、要約すると「患者を一人の困っている人と受け止め、一緒に直していこう」という関係性から始まる。それは「社会モデル」の実践化である。

 さらにイタリア社会は教会を中心とした権威と、家族や土地とのつながりの深さなど服装的な絆で結ばれており、そこにトリエステという小都市の精神医療システムとバザーリアの哲学が機能したという指摘もある。

 それでも1978年の180号法可決と1999年のイタリア全土での精神科病院完全廃止宣言までは約20年が経過していた。地域移行とは言うのは簡単であるが、退院した患者のリハビリテーション、社会復帰の仕組み、緊急時の対応など、病院で行ってきたことを「地域」でどのように受け止めればよいのか。哲学的思考による人間の尊厳に納得できたとしても、地域における具体的な活動と仕組みにも納得が必要だ。

 これを受け入れたのは、やはり改革もさることながら、イタリアの社会風土も大きな影響を与えているのは言うまでもない。

(下)につづく

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