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コラム

精神病院をなくした街、イタリア・トリエステを訪ねる(下)
小路の不死鳥、私たちの改革に向けた小さな道

歌劇場の傍らで

 落ち着いた照明と時代物の家具に統一されたような雰囲気は、ちょっととしたタイムスリップしたような感覚だ。イタリア・ベネチアの小路を抜けて小さな広場に立ち現れる歌劇場フェニーチェのたたずまいを見ながら、脇の小路にあるのがレストラン「フェニーチェ」である。

 1970 年冬。精神医療改革の旗手、精神科医フランコ・バザーリアとトリエステ県代表のミケーネ・ザネッティはここで初めて会い、トリエステ県の精神医療改革についてお互いの考えを交換した。この直後にバザーリアはトリエステのサン・ジョバンニ精神病院の院長に就任し、トリエステでの精神医療改革が大きく動いていく。

 この当時のバザーリアは失意の中にあった。9年前の1961年にゴリツィアの精神病院院長に就任したバザーリアは、社会から排除され、市民権をはく奪された患者たちが暮らす病院の現状を目の当たりにし、窓の鉄格子の除去、拘束衣の使用禁止、医師の着用禁止から始まり、患者を外に出す改革を始めたが、頑強な反発に加え、外出した患者が妻を殺害する事件などで、改革はとん挫、バザーリアはこの殺害事件の責任も問われ、被告人ともなり、同地を後にすることになった。

 そしてバザーリアの故郷ベネチアの「フェリーチェ」である。イタリア語で不死鳥を意味するその歌劇場の名前は、1773年に焼失した他の歌劇場の後継を意味して名づけられたが、そのフェニーチェも、1836年と1996年に全焼し、その度に再建され不死鳥の名にふさわしい皮肉な運命をたどっている。改革に向け挫折を繰り返したバザーリアを重ね合わすと、運命的な符号のような気もするが、ここから改革の再スタートが始まった。

思惑が力に

 一方、大学教員出身でキリスト教民主党の党員、ザネッティは1970年の選挙を経て県代表に選出されたばかり。キリスト教民主党は、イタリア社会党、イタリア民主社会党、イタリア共産党、スロヴェニア同盟とともに中道左派連合を形成しているが、わずか1票差でイタリア共産党を上回るだけで、議会運営の基盤は脆弱であったが、ザネッティは政治家として改革を後押しすることを決めた。

それは政治的な思惑に加え、バザーリアと根本的な哲学が一致していたから、であった、

選出直後のザネッティからの要請を受ける形でバザーリアはトリエステ県立のサン・ジョバンニ精神病院の院長に就任し、ゴリツィアで挫折した精神医療改革を、行政のトップとの協働作業で行うことになる。

ザネッティは著書で、このレストランでの出会いから程なくして「敬意と友情に包まれた付き合いが始まりました。その関係は、言うまでもなく私に多くのものをもたらしました」と語り、バザーリアをこう評した。

「私たちは実現すべき目標の下で連帯していました。そして、私のような、どこにでもいるキリスト教徒の人間は、次のことを自分の身をもって彼から学んだのです。すなわち、改革者や解放者の行為は説教からではなく、生きた経験から獲得した明晰さをもとに、生身の人間が本当に欲しているものから始めなければならないということです。そして、生身の人間は、権威的であるがゆえに安心感を与えるかつての抽象的な規則に基づくのではなく、あるかままの人間として、深く理解され受け容れられるべきであるということです」。

反発を超えて

 トリエステの改革はバザーリアにとって行政の長という強い味方を付けたと同時に、これまでの反省を活かして、医療の論理に染まっていない若い医師を採用し、改革遂行の仲間、グループ形成をしていき、心強い人的ネットワークを築いていくことも効果的だった。

サン・ジョバンニ精神病院内では、患者が病棟を自由に行き来できるようにし、鉄格子も外され、新しく購入する家具は殺風景なものではなく、カラフルに彩られたデザインとなった。

そして予想通り、看護師組合が猛反発し従来の隔離型閉鎖病棟のやり方に戻すという主張のもと、立てこもりも行われたが、バザーリアは対話でこの問題を打開し、反発した看護師らも職場に復帰させた。治療の現場では、日常の業務の報告を義務付けるなどコミュニケーションを重視し、早朝の会議で治療計画を話し合うなどのスタイルに変わっていくのである。

それでもメディアを通じてトリエステの取り組みが有効かの議論は全国に及び、批判キャンペーンも展開された。その中で、1972年2月にバザーリアの許可を得て退院した患者が両親を刺し殺す事件が起こった。司法も巻き込んでバザーリアへの告訴や批判も巻き起こる中、ピンチを救ったのは国際的な世論だった。

トリエステの改革が世界保健機関の精神医療・精神保健の「パイロット地区」に指定されたのである。世界の見本として、トリエステが世界的に注目を集めることになり、バザーリアの改革は進められることを後押しした。

これはバザーリアの個性による人的ネットワーク、そして言葉の力強さゆえに導かれたともいえる。ノーベル賞作家ダリオ・フォーとの親交や、前衛ジャズの先駆者オーネット・コールマンがサン・ジョバンニ精神病院内でコンサートをしたことは、どちらも象徴的だ。彼は人を惹きつける魅力と協働しようというエネルギーと受け容れる寛容さがあったのだろう。

イタリアの組合、日本の法整備

 このイタリアの改革で重要なのは、医療という隔離した世界から地域社会に移行する際に、その「地域」の受け皿を作ったことである。

その1つが社会協同組合だ。これは1991年に制度化したもので、組合は労働者である組合員の3割を社会的弱者と規定している。社会的弱者とは、身体、知的、精神の各障がい者と貧困者、移民、虐待を受けた子供、元受刑者など、である。この組合員はすべて同じ報酬。組合のメリットは税制の優遇と公共事業の優先権などの経済的な措置がある。

 労働組合の伝統が根付くイタリアで、組合が機能化したことで、米国とは違う道を歩むことになった。米国でも精神病院の患者を解放する政策を取ったものの、社会の受け皿がないまま、患者がホームレス化した例が多くみられたとの報告がある。

 地域生活中心型の支援を基本的な考え方とあり方について、岐阜県立看護大学の紀要(第12巻1号、2012年)の「イタリアにおける地域精神保健医療システム」(石川かおり、葛谷玲子)がトリエステ視察を受けてまとめている。それは「1 隔離・拘束ではなくコミュニケーションとネゴシエーション」「2 患者と支援者は対等の関係」「3 自由こそ治療/全ての患者が対象」「4 強みや健康な部分を生かす」という。サン・ジョバンニ精神病院でバザーリアが行った自治集会が、患者と医師、看護師が対等な立場で話し合う場は、これらの4つの方針を内包し体現した形かもしれない。

 日本で2005年に公布された障害者総合支援法は理念を広く示すまでに8年もかけられたが、2013年に「誰もが住み慣れた地域での生活を実現するために、障害がある方に対して総合的な支援を行う」とし、障害者が地域で暮らすことを基本に支援することが明確に示されている。地域で暮らすために、公共サービスでの支援と企業社会での職場における理解の「支援」と「理解」の両輪で進めなければならない。そのキーワードとなるのが、トリエステの4つのポイントだ。

 レストラン「フェリーチェ」の料理は前菜からメインまで、どれも伝統的な味わいに、盛り付けが斬新な発想で、味は勿論、過ごしていて心地よい場所だった。食後のデザートにクレープを頼むと、食卓の傍らで銅製のフライパンでクレープ焼きを実演してくれるアトラクションもある。

 45年以上前にバザーリアとザネッティがこの料理を楽しんだかは、当時を知る従業員はいるはずもないから分からないが、そこにバザーリアがいるような気になってしまうのは、勝手な親近感からか。いつか日本の精神保健の環境が進化し地域移行の歩みが確実になった時に、再訪し、そのバザーリアの影に報告したいと思う。

(おわり)

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