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コラム

「絶望に見る希望」をありがとう
SEKAI NO OWARIが伝える疾患世界

精神疾患を超えて

 精神疾患、不登校、ADHD(注意欠陥/多動性障害)、不登校、閉鎖病棟への入院-。こんな符号で私を惹きつけた音楽グループ「SEKAI NO OWARI」(セカオワ)は、一般的かつ絶大な人気を獲得し幅広いファンをその世界観への共鳴とともに魅了し続けている。男性3人(Fukase, Nakajin, DJ LOVE)と女性1人(Saori)の幼馴染の間柄による構成は、「つながる」ことを象徴化し、共同生活をして自らのライブハウスで楽曲を披露、メジャーデビューを果たしたストーリーを下支えし、現在は日本で代表的なバンドの1つとなった。それも独特の世界観を貫いての存在感は類例のない存在だ。

 ボーカルのFUKASEの経験としての疾患は、自然と彼の表現力としてファンや世の中に受け入れられていることを考えると、それは社会の中で疾患が身近になったことの表れでもある。同時に世の中が求めているもう一つの「真実の世界」とも思う。

 そんなことを山梨県富士吉田市の富士急ハイランド「コニファーフォレスト」の大型野外ツアー「INSOMNIA TRAIN」が始まる夕刻、森の鳥の鳴き声の中、幅広い年齢層の観客とともに、華やかなステージを前にし、考えていた。

根強く力強い「ケア」

彼らのパフォーマンスはメディアの常識ではなく、自分たちが作る物語で展開されてきた。社会が示す座標軸や評価軸も別世界。楽曲の中にも、精神疾患だった過去の経験を表現したものや人間世界の争いを皮肉ったものなど、テーマは社会性を伴っているが、直接的な訴えではなく、諦観に似た視点から、そっと包み込む優しさが感じられる。それは、彼らが「ケア」されない状態を知っているからこその、本物の「ケア」を思わせるパフォーマンスとなって訴えかけ、ケアを必要とする若者の群れが彼らの楽曲に共鳴し、彼らが作り出すファンタジー=別の世界に向かうのであろう。

彼らの存在が特異なのは、これまでアーティストとしての「あるべき姿がない」こと、そして伝えているメッセージは、これまでの常識と一線を画しつつ、批判ではなく、つながろうという「ケア」の思想が根強いことだ。

Fukaseはインタビューで「僕らは4人がやっているのが楽しくて楽しくてバンドをやっている、というところが基盤にあって、そこで楽しく音楽が生まれてきているだけなので、そういった意味では、僕は、〝生粋の音楽家〟という感じとは違うと思います。意識としては、音楽を使ってみんなで遊んでいる、に近いですね」 と答えているように、それまでのアーティストが作品を作る際に発する強烈なエネルギーとは違い、「楽しく」音楽をするのが基本であることは、新しい価値観を示してくれている。

それはこれまでの社会への反抗的ロックや厭世観漂うパンクロックとは違い、決して暴力的なニュアンスがなく、歌うのは「希望」や「つながり」など、一人ひとりとつながれる可能性を信じている意志がある。

東日本大震災の復興に向けた「Never Ending World」は「『何か』が終わってしまったけれど それは同時に『何か』が始まって 『終わり』はいつでも悲しいけれど だからこそ『僕ら』は手を繋ごう」と歌い、精神疾患を歌った「銀河街の悪夢」では「明日を夢見るから今日は変わらないんだ 僕らが動かせるのは今日だけなのさ 今日こそは必ず何か始めてみよう 応援はあまりないけど頑張ってみるよ」と当事者としてしか分からない感覚を強烈な現実の描写とともに、わずかに差し込む希望の光を表現した。これらをはじめとする楽曲は、彼らの存在そのものも含め、「ケア」の要素を色濃く帯びて、ファンの心をつかんでいる。

ライブで心の変化

コンサート会場の始まる前の緊張はライブの大小にかかわらず、それは期待と不安の中で、演奏家を待つ楽器が寂しく置かれたステージの暗がりの陰影に感じるものだが、森の中の大掛かりなネオンサインと装飾物が施されたステージはただ圧巻で、ここで「世界の終わり」の風景が繰り広げられるこれからの数時間を考えると、その時「私の心」はどのように変化しているのだろう、という今までとは違う緊張感の中にいた。

私が開演前から、自分の心と対話してしまうあたりはやはりセカオワの世界観に引き込まれている証拠で、それは何か特別なハードルを越えている感覚がある。それもそのはずで、私が精神疾患に関する仕事に本格的に乗り出そうとしようとした時、そこにはセカオワがいた。彼らが映し出す世界、彼らが描く世界観、彼らが紡ぎ出す言葉の世界はすべて精神的な不調で苦しむこの世とつながっている気がして、私の前を通り過ぎていく流行のメロディやアーティストとは違って彼らは異彩を放ち私に強く呼びかけてきた。

「それをやるなら、これを分からなきゃ」と。

それは既成概念や、先人の大人たちが決めた枠組みの中に収まらず、彼らの世界で彼らは生き、そこに人が寄り、大きなコミュニティが形成されていった事実とその心たちの叫びともとれた。

「楽しい」ステージに決意

最近、特別支援学校を卒業したばかりの何人かの利用者と話す機会が多く、彼ら彼女らがそれぞれの世界を持ち、その世界は大事なもので、「社会」がその世界を壊し、こちら側の「社会」に押し込もうとする構図がくっきりと見えくるいくつかの瞬間があった。従順であれば社会に受け入れられ、何らかの障がいがあったとしても、心配なく生きられる、という論法の押し付けだ。

その中で自分の世界を壊されることを恐がり反発するタイプや、自分がやりたいことを否定され続け、自分の意志は必要ないと思ってしまっているタイプに遭遇した。セカオワは、そんな彼ら彼女らのそれぞれの「世界の終わり」の風景を絶妙に理解する。そして表現し、ファンタジーの世界として、この世の中を再定義することもしてしまうのだ。

そのステージはと言えば、強いメッセージ性をそのままに、高い音楽性とステージパフォーマンスの精緻さで終始し、1つのショウとして完璧だった。いや、簡単に言えば「楽しかった」。「世界の終わり」というゼロの状態を意味する彼らは絶望を表現しながら、希望を見させてくれる、不思議なステージパフォーマンスだった。

このステージでセカオワが私に残したもの。それは、セカオワを必要としている人に、私自身がセカオワとは違うアプローチと、私の立ち位置によってできる何かを模索しなければいけないということ。まだ見ぬ君の世界を知ろうとする勇気の連続が何かにつながっていくのだと思う。私にそんな希望を与えてくれたセカオワに「ありがとう」と感謝したい。

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